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わたしを離さないで

↑のサムネの写真じゃなくて松尾たいこさんの限定カバーだったよ!かわいい!


以下読書感想、完全にネタバレですので読んでいない方は注意。
 

 


これは面白かった。惹きこまれて一気に読んでしまった。
ミステリ小説ではないのだが、一種の謎解き的な要素がある。
ぼんやりとした霞の中に見えていたものがゆっくりとゆっくりと明らかになっていくのだ。
序盤から文章の端々に読者はなんとなく言いようのない違和感を感じながら、淡々と主人公の子供時代の思い出を聞かされる。何か良くない真実が待ち受けているにちがいない、という「不穏な予感」を感じるはずだ。この物語における最も重要な事実は、序盤のうちにはっきりと登場人物によって口にされる。これが第一打撃。しかしこれは「提供者」という言葉からもなんとなくひょっとして、と感じていたことであるし、まして奇妙な施設の全貌が明らかになるわけではない。キャシーとトミーが語り合っていた「疑問」についても解決されないまま、ラストまで淡々と日常が続くのだ。ヘールシャムを卒業し、彼らはコテージへと移る。コテージ?これは奇妙なモラトリアムである。最後まで読み終わった後でも、なぜ彼らが介護人になる前にこのような生活を送る必要があるのか、論理的に説明できない。外の世界に慣れるための移行期間、という程度にしか推測できない。ヘールシャム出身の愛し合った恋人同士は提供まで2年間の猶予をもらえるのだ、介護の仕事もなく完全に自由に2人だけで過ごせるのだという噂がある。彼らの誰もがその噂に憧れ夢中になっているようだが、しかしこのコテージでの生活こそ〈猶予〉、モラトリアムに他ならないように見えるのだが。この点だけ腑に落ちず。(いずれにせよここでの生活はキャシーにとって、そしてトミーやルースとの関係性においては非常に重要な意味を持っている。)

純粋に真実が何なのかが明かされるという意味のミステリ性のほかに、ああ、ある意味で構造的に叙述トリックの様相を呈しているなあ、と私が思わされたのは、ラストのほど近くである。マダムに集められた生徒たちの美術作品が、ほんとうはエミリ夫人らの活動に賛同してくれる支援者を増やすための展示会のために集められていたのだ、という物語の核心部分が語られる場面である。

「わたしたちが作品を持っていったのは(中略)あなた方にも魂が―心が―あることが、そこに見えると思ったからです」

「でも、なぜそんな説明が必要なのですか、先生。魂がないとでも、誰か思っていたのでしょうか」

ここ!やられた、と思った。
このシーンまで、臓器提供のために作られた「人間ではない彼ら」が人間と同じく友人との些細なすれ違いや仲直りで一喜一憂したりするさまに一度も違和感を感じなかった、いや違和感までいかずとも意識すらしなかったことに気付く。彼らが人間じゃないという情報はずっと前に提示されていたのに。キャシーの一人称で回想を話すという体裁になっているから気付きにくいけれど、もっとSFチックに描かれていたら、あるいは第三者の目線で書かれていたら絶対に意識するポイントだよね。「お?このクローンはまるで人間みたいに感情豊かだな」って。そしてその目線で読んでいれば、美術作品が心があることの「証拠」なのだという発想はもっと前に出ていたはずなのに(伏線もあるしね)。それが彼女自身の一人称であることに加え、ヘールシャムという環境の特異性、また彼女自身が知識の欠如によってある意味「信頼できない語り手」であることによって、気付かせないのだ。キャシーとトミーの推理もミスリード。上記の台詞が出てきてはじめて、「ああそうか、クローンに心が無いなんて思う人もいるんだな。」という発想を取り戻す。キャシーと同じ目線だ。
まあ別にこのこと自体は小説の中で叙述トリックだ!と騒ぐようなことじゃない些細なポイントで、そもそも作者もそんなつもりは全く無いのだと思うが、個人的にこれはツボだった。
そしていかに読者が「キャシーの目線」で物語に惹きこまれていたかというひとつの証明でもある。

と、まあミステリ的な解説をしてしまったが、カズオ・イシグロ氏が言うには、ミステリとして読者を刺激するために小説内で真実を小出しにしたわけではなく、子供の世界を子供と同じ目線で感じて欲しいからだ、とのこと。上でも触れたように、この試みは非常に成功していると思う。序盤のヘールシャムを舞台とした子供時代の回想など、読んでいて知らない森の中を一人で歩くこころもとない子供の気分であった。読者は「自分の置かれている状況について、自分自身について、閉ざされた世界で大人に情報を抑制されながら良く解らないまま日常を送る」といういわば子供時代の追体験をするわけだ。こう書くと普通の子供時代じゃないように聞こえるが、子供時代というのは多かれ少なかれそういう面がある。

それにしても、正直に言ってカズオイシグロ氏はクローン問題にたいして興味はないのだろう。また、ヘールシャムのエミリ先生やマダムのように「クローン人間にも人道的・文化的教育を施せば人間と同じく感受性豊かで理知的な人間に育つのだ、だからクローン人間の人道的教育を推進すべきだ」というような「思想」を持っているわけでもないのだと思う。彼自身もインタビューで言っているが、クローン人間はあくまで彼が表現したかったものを描くための装置にすぎない。彼が描きたかったのはクローン人間ではなく、人間だ。それをスムーズに見せるための役者としてクローンが選ばれたのだ。
生まれて、生きて、死ぬということ。運命を受け入れるということ。想い出の効用。
全てが淡々と描かれるのだけど、静かな力で心を揺さぶられる。

わけもわからず生かされて、運命に抗おうにもどうにもならず死んでいく。
生きた証明に、愛すべき人たちとの想い出だけが残る。

なるほど人間そのものだと言わざるを得ない。


※カズオ・イシグロ氏のインタビューはこちら。
原題はNever Let Me Go。映画化もされる予定とのこと。


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